恐怖と欲望のガールズライフ

えーえんと勉強中。基本的に読書や映画の記録。

『チワワちゃん』雑記 わたしたちはなにを共有できるのだろう

『チワワちゃん』鑑賞。好きな映画だった。ある人間の生の一瞬、もしくは俳優のいちばんの輝きを閉じ込めた映画。花火、閃光、刹那。そんな言葉でたとえられる「青春」そのものとしか言いようのない瞬間を切り取ったこの映画には、めまぐるしく変わる場面すべてにあざやかな光が瞬いている。「何者にもなっていない若者」を描いた映画としては、『渇き。』や『溺れるナイフ』が印象に残っているけれど、本作もまたひとつ自分の中に残る作品となった。かつてあった、あるいはかつて自分が渇望していた、けれどもう辿りつきようのない場所を結晶化してくれたような、愛おしい映画。

あなたがこれから向かうところはわたし達がやってきたところ(岡崎京子『チワワちゃん』)

 

誰も知らないチワワちゃんを、語りで肉づけする
主人公のミキ(門脇麦)が疎遠になってしまった友達の死を知るところから物語は始まる。その子の名前はチワワちゃん(吉田志織)。バラバラに殺害され東京湾に捨てられてしまったチワワちゃんの謎を解くという名目で、ミキはかつての友人たちを尋ねて歩いていく。原作は岡崎京子。バブル期の女の子の危うさを描かせたら天才的な彼女が生み出した「チワワちゃん」という女の子も、やはりとても不安定で魅力的な存在だった。

 天真爛漫、自由奔放で見目麗しいチワワちゃんは、ミキの密かな想い人・ヨシダ(成田凌)の彼女として現れる。入り浸っていたクラブのマスターがある日、VIPルームで遊ぶ不動産関係者の手持ちのカバンになんと600万円もの大金が入っている、と悪い笑みを浮かべて耳打ちする。ぐらりと揺れる仲間たち。もしその大金を盗むことができたなら……?すぐ飛び出して行ったのがチワワちゃんだ。600万円の入ったカバンをひったくって夜の街を笑顔で遁走、チワワちゃんを手助けする仲間たちと必死の形相で追いかけるスーツの大人の、おいかけっこの疾走感が目に心地いい。大金があると聞いて、目を輝かせる子、目ざとくそれを察知して諫める子、そしてチワワちゃんを手助けするその方法、仲間内での役回りや個々の特徴がわかるすばらしいシーンだった。

その600万円を手に、彼ら彼女らは夏の夜のパーティにくり出す(ちなみにこの金は不正献金だったと発覚し、法の隙間を縫って彼らのものとなる)。そして、たった3日間ですべて使い果たすのだ。金庫からお金を取り出す仲間たちを金庫の内側から映す場面では、あまりにポンポンと100万円束を彼らが持って行くので、「嘘でしょ」と金庫の声が聞こえたかと思った……原作もあわてて手に取ったら、この盗んだお金で遊びまくる展開は映画のオリジナルだった。

「こんなに楽しい時間がずっと続けばいいのにと思ったとき、それはもう会わなくなるサインなんだよ」
チワワちゃんの言葉のとおり、音楽とプールと花火とお酒とセックスとタバコその他もろもろに彩られたパーティは3日間で終わる。そこからはパーティの熱が冷めるのと並行して、仲間たちもどこか散り散りになる。まさに夏の夜の夢。ただしシェイクスピアのような大団円が用意されているわけではなく、チワワはモデル業界で売れ始め、ヨシダとはうまくいかなくなり、新しい男をつくって、AVに出演したり、友達にお金を借りたり……などなど毀誉褒貶が。ミキはそれを友達の語りで知る。自分の知らなかったチワワちゃんの顔が見えてくるにつれ、彼女はさらに謎を帯びるようだ。当初仲間内で「ゴールドラッシュ」と呼ばれていた彼女に、謎めいた「人間」の姿が立ち現れてくる。

 

何者でもない彼らに贈る祈り

チワワちゃんの死の謎は明かされないまま終わる。チワワちゃんを好きだった人もいれば、男をとられて憎んだ人もいる。お金を貸して助けた人もいれば、助けなかった人もいる。いつの間にか仲間の中心にいたチワワちゃんは、いつの間にか見るからに悪い人たちと付き合うようになり、いちばんの友人だったというユミ(玉城ティナ)ともいつしか疎遠になり、そして決定的なきっかけも用意されないまま、人知れず惨殺される。でも、なんとなく「わかる」。あんなに軽やかに窃盗を犯したチワワちゃんだから、踏みだしてはいけない線を簡単に越えるだろう。

「チワワちゃんにはやりたいことがいっぱいあったよ」と語るユミ、「チワワちゃんはなにがしたかったんだろう」とつぶやくミキ。そんなミキ自身だけでなく、作中の登場人物たちは、誰一人として「自分のしたいこと/すべきこと」なんて定まっていないのだ。唯一チワワちゃんの映画を撮りたいカメラマンのナガイ(村上虹郎、原作にはない立ち回り)は、彼女が死んでしまいその夢も宙ぶらりん。遊んでいた仲間との連絡を断ち、就活に邁進するヨシダはその鬱屈を晴らすかのように「俺のことが好きだったんだろ」と過去にしがみつくようにミキを襲う(無事に失敗、原作にそのシーンはないし、ヨシダはほとんど出てこない)。

彼らはまだ何者でもなかった。お金も名誉もなにも残らない「青春」という豪奢な空虚は、チワワちゃんの死という定点を突然獲得することで、無理やり引き延ばされることなく結晶化された。最後天国のチワワちゃんに向かって一人ひとりが自己紹介をしていくシーンがある。死者の追悼、そして自己の物語を紡ぐこと。最後の海のシーンは、「チワワちゃん≒青春」を失った若者たちの終着点と同時に、出発点だった。

「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。それは別のあり方として、全て同じ私たちの。」(2004年刊行の物語集『僕たちは何だかすべてを忘れてしまうね』より)

おそらく岡崎京子の主眼は、東京という砂漠で人とのつながりが希薄になり、承認欲求と消費欲求のスパイラルに陥って疲弊していく女の子を描くことにある。だから岡崎京子のラストは、女の子が自分のなかに閉じていき、出口がない気がするのだ。恋愛や仕事では救われないほどの孤独を抱えた女の子は、作中では死に向かうか(殺されるか)、どこか違う土地に赴くかしか選択肢はない。『pink』はどこにも行けずに終わる。それでもわたしは、岡崎京子の作品を読むと、「あなたは孤独の底でもひとりじゃない、どうか描かれることで救われる女の子がいますように」という切実な祈りが聞こえてくる。

 チワワちゃんが死ぬ2、3日前に彼女に会ったというクマちゃん(松本穂香)は、チワワちゃんのことを「きれいな人だった」という。「なんかいいなと思った」と。そして海からの帰り道、ミキはチワワちゃんが全力疾走する姿を路上に見る。夢か幻か、彼女は最初に会った日と同様、黄色いTシャツにショートジーンズで、笑みを浮かべながら駆けていく。岡崎京子の漫画の外では救われない女の子が、映画の中ではあんなに晴れやかに走っている(おそらく岡崎京子の女の子は走ったりしない)。それだけで、なんだか泣きたくなるじゃないか。鬱屈としたこの街から、チワワちゃんのように駆け出したい。それは叶わない夢であり、だからこそ美しいのだが、結晶化されることでチワワちゃんは確実にみんなの心の中に居場所をつくる。

 

暴力的な切断と身体の取り戻し

とはいえ。青春映画が美しいのは、その刹那性がほんとうに刹那であると誰もが気づいているからだ。盗んだお金を罪に問われることなく豪遊し、誰とでもキスをして誰とでもお酒を交わして、何者でもないからこそ垣根なく人と繋がれる。そんな自由なのか自由でないのかすらわからない、境界線のない時間の終わりは暴力的にやってくる。チワワちゃんの死、突然連絡がとれなくなる友達。そして文字通り性暴力でミキの恋は終わった。

映画ではミキがチワワちゃんに抱いていた淡い嫉妬や羨望が物語を駆動させる。ヨーコ(栗山千明)が指摘したことがほんとうだとしたら、それがあるから、ミキはチワワちゃんの輪郭を確かめたくてしかたがない。自分は彼女に負けたのか? それならどう負けたのか、どんな土俵で負けたのか、言葉ではなく体でも見極めたかったのだと思う。映画で描かれるのはミキにとって、チワワちゃんは死んだけどその存在をまだ完全には過去にできていない時間だ。そのゆるゆると続く時間は、作中で暴力的に切断される。

最後のシーンがデート・レイプである必要はあるのかとも思うけど、あれはきっとミキにとってレイプでないとだめだった。ミキはヨシダと1回だけセックスした経験がある。原作ではなにも気にしていないように描かれていたし、「たかが1回」と軽やかに過去にできる女性がいることも知っている。でも映画の撮影された2010年代後半は、レイプや性暴力をきちんと糾弾する声が聞こえはじめ、自分の身体に向き合わざるをえない時代だ。ミキにとってヨシダは「友達の元カレ」であると同時に、「いまだうっすら好きな人」なのだ。そのヨシダとのセックスを自分ひとりで「取るに足らないこと」にするのは、恋心が残っているかぎり、つらいのではないかと思う。しかもチワワちゃんの影を追えば追うほど、脳裏にはヨシダがよぎる。2回目を拒絶ことで、自分のなかに残ったわずかな恋心を昇華させるために、ミキはヨシダから(そしてチワワちゃんから)、ちゃんと体の経験を取り戻さないといけなかった、そんな気がする。

虚脱と諦めと軽蔑の浮かんだ門脇麦の顔を、そして焦燥と失望と孤独に歪んだ成田凌の顔を、わたしはきっといつまでも覚えている。若者特有のいやらしさと絶望が詰まっているレイプ未遂シーンが、わたしは好きだ。

 

大人になること

「青春」は終わる。そんなこと誰だって知っている。しかし、ではその先はどうやって生きていけばいいのかということを、誰も教えてくれない。駆け出したくなるような「青春」が自分にもかつてあったと、郷愁を抱くことが大人になったという印だろうか。外部的に大人にされているようで、どこか解せない。

2016年のトランプ大統領選以来、「世界が分断している」という言葉をよく耳にするようになった。新年の始まりから、トランプ支持者がホワイトハウスに乗り込んだというコメディかなと思うニュースも目にした。保守とリベラルの分断、男女の分断、社会の分断。日本でもじわじわと膾炙してきた、「分断が生まれる」という言葉。その言葉を聞くたびに、ずっと違和感を覚えてきた。人間なんてすでにそこら中で分断されてるよ、と思う。

門脇麦がインタビューで「遊んでいる人たちの映画でしょ」と言われることが多いと語っていた。そういうレッテル貼りの言葉に接するたびに、「この人なに言ってんだろう……」と目の前の人に呆然としたことを何度も思い出す。おそらくそれと同じくらい、いやそれ以上に、わたしの知らないうちに、相手がわたしの言動に愕然としたこともあるだろう。

思想も身体も価値観も共有できない、あるいは共有しても飽き足らない時代に生きているのだとすれば、どれだけ溝が深いかを見極め、どれだけの勇気をもってその溝を飛び越えられるか、という基準しか持てない。

何者かになること、それを強要される社会ではある。だから「何者にもならない」ことは責められるし、「何者にもなれない」と焦る。それが人権、大衆、水平化の世界(誰の言葉だっけ)だ。

ここまで書いてきて、やっぱりチワワちゃんが死んだのは悲しい、と思う。彼女には生きていてほしかった。「何者かになってしまう」若者たちに穿たれた空虚な穴(一生忘れられないとしても)としてではなく、「何者にもなれない」人間として、生き抜いてほしかった。それは現代社会の希望となったはずだ。

 

参考

www.cinra.net

断章・なぜ書くのか

いちばん親しい人に、「なにがなんでも文脈を読みとってやろうとする気概が感じられない」と言われた。そういわれると、たしかにわたしは「読み書き」が苦手なんじゃないかと感じる。執着が足りない。そしてそれはきっと、世界への愛情が足りないのだ。

 *

人はなぜ書くのだろう。だれかが言っていた、それは「世界に対する返事」だからだ、と。だれかからの、どこかからの贈り物を、わたしたちは「手紙」として受け取りながら生きている。それはほんとうに「手紙」のかたちをとるかもしれないし、誰かのぬくもりややさしさ、驚愕の事実や景色の美しさなど、かたちに残らないものかもしれない。いずれにせよ、書くことは、その与えられたものたちに対する返事なのだという。

 *

わたしは自分で書き始めるに値するほどの「贈り物」を受け取れていない、ということになるのだろう。受け取っていないわけじゃない。受け取る感度が低いのだ。だから与えられたものを受け取れない。なんというか、とても悲しい……。

「返事」をするまでには、いくつかの段階があると思う。

まずはじめに、ガツンと脳天を突くような感動とか、なにをしても収まらない怒りとかの「感情」が、たぶんある。橋本治は『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本のなかで、そういう原体験としかいいようのない「美しさ」の経験が、ひいては人間関係にまで影響するということを書いていた気がする(うろ覚え)。

美しいというのは実用とは関係ない言葉である。また他人の支配を意図しない人間関係とかかわる言葉である。(橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』ちくま新書) 

問答無用で、まさに「世界」が襲ってくるような、とても受動的な体験を、能動的な体験にしようと思う次の段階がある。あれはなんだったのか。なにが自分に起こったのか、あるいは起こっているのか。「解釈」をしようとする。

そして、それを定着させるために、人は書く。アウトプットする。人によっては絵を描くことかもしれないし、対話することかもしれない。これが、わたしの現時点での最後の段階。おそらく世の中的にはそれを「売る」という経済の段階がある気がするけど、とりあえずわたしにとっては「書く(創作)」こと。きっとこの最後の段階にいって初めて、他人とも共有できるものとなる。

他人と共有できてやっと、それは「返事」になるのだ。

私はずっと自分で解釈をしようとする、という段階で留まっていた。ひとりっ子だからか、他人と共有したいという欲がほとんどない。でもそれは、世界への返事を怠っている、ということなのだとようやく最近わかった。世界への返事を怠ると、自分の解釈を客観的に判断できず、結果的に受け取る感度も鈍る。

きちんと返すこと。それは、いまのわたしには義務にちかい。だけど、実際に書くことを通じて、もうすこし楽しめるようになったらいいな。

 *

むかし、絵を描いていたころ、下手なりにとても楽しかったし、アイディアがどんどん湧いてきた。

でも、わたしは技術を洗練させようとしなかった。技術を磨けばもっと楽しかったのに、と思うときもある。漫画家やイラストレーターになっている将来はまったく想像できなかったけれど、わたしの人生に根本的に足りないのは技術を学び続けること、習練だ。

習練にはなにが必要なのか。フロムの『愛するということ』は、愛についてだけでなく、すべての習練に必要なことが書いてある。

①規律(毎日決まった時間に練習するなど、規律正しさ)、②集中、③忍耐、そして④技術の習得に最大限の関心を抱くこと。

愛することをやめてしまうことはできない。だとしたら、愛の失敗を克服する適切な方法はひとつしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。(フロム『愛するということ』紀伊國屋書店

習練して、書くことができるようになると、たぶん「世界からもらった贈り物」の解像度が上がる。すると、「返事」の精度が上がるはず。「これだけもらったのだから、もうすこし増やして返そう」という能動的な動きが加わる。わたしの書く目的は、これしかない。感度を上げて、贈り物への返礼を適切に行うこと。それが、世界への愛になるのだと信じている。

最後に最近の愛の話を。

綾野剛がドラマ『MIU404』関連のスペシャル番組で、「人生で必要なものはなんですか」と聞かれて、「愛」と即答していた。その後、脚本家・野木亜紀子と主題歌を歌う米津玄師のラジオにゲストとして出演したとき、彼は米津とユニクロのコラボTシャツを着ながら、「これだけは言っておきたいことはありますか」とアナウンサーに聞かれて、「『これだけは言っておきたいこと』は本人に直接言います」と答えた。安易に言わないこと、場所と時間とタイミングをおそらくすべてはかること。小さな愛、小さな返礼を見た気がした。

また、ずいぶん前のあさイチで。川上未映子がゲストの回、視聴者から「母に『あなたは幸せになれない』と言われたことが呪いのように残っています」というメールが届いた。川上未映子ですら絶句するなか、コーナーの終わりがけ、「ちょっといいですか」と博多大吉が遮って話し始めた(以下、「夜明け」さんのブログ抜粋)。

note.com

 「ずっと気になってたんですけど、さっきのメッセージ送ってくれた方ね、お母さんの言葉が呪いになっているという。あの、FAXここで紹介された、読まれたことで、もう、呪いは解除されたということでいいんじゃないかなと。厄落としというかね、これをもって呪いは解けたということで。よろしくお願いします。お幸せに」

この祝福のような言葉は、視聴者からのメールが突然こなければ、博多大吉は発することがなかったものだ。これもまた、「返礼」のしかたなのだと、思わず涙ぐんだ。

だれかへの愛に溢れた返礼は、世界への愛に変わる。

ということで、きちんと文章の技術を上げていこうと思います。合掌。

備忘録(映画)

定期的に書かないと備忘録すら忘れてしまう。

 

映画

ダニー・ボイル監督『イエスタデイ』

世界中が停電した夜、ビートルズが消えてしまった!レコードもなく、検索にも引っかからない!ということは、自分の曲だとして歌ってもいいのでは……?というイギリス映画。エド・シーランが本人役で出ている。ビートルズの名作がこれでもかと流れてそれはそれで楽しいのだが、いくつか疑問点が。まず主人公のジャックを演じるのはインド系イギリス人のヒメーシュ・パテル。そのジャックがビートルズの曲を次々と思い出しつつ歌って世界中で大ヒットするのだが、インド系の出自に関しては一切触れられない。最初の舞台はイギリスの海辺の田舎町で、現実的に考えると、そういう場所で差別がないとは思えず、本作ではそうした緊張感がなにも描かれないのだ。外国にルーツをもつ俳優が、常にマイノリティの役を与えられるべきだとは思わない。むしろ常にマイノリティの役しか与えられないというのも、ステレオタイプだろう。が、マイノリティであるという現実はたしかにあるのであって、そこがまったく描かれないのは、リアリティを欠いているように思う。あと、EDMとヒップホップ全盛の現代において、ビートルズの楽曲が果たしてこんなにヒットするのか、というのも疑問。ビートルズのファッションについても言及なし。ただ!ここからはネタバレになるので書きませんが、未来だからこそのうれしい演出もあった。

 

トッド・フィリップス監督『ジョーカー』

バットマンシリーズの悪役ジョーカーの生い立ちを辿る映画。そのアメリカンな出自にもかかわらずヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞。なんといってもホアキン・フェニックス!亡きリヴァー・フェニックスの面影を求めて観続けてきた役者の怪演が観られてとても満足。ラストシーンに対する解釈はわりとどうでもいいのだけど、その追い詰められていくさまが悲しくて悲しくて。恋人、両親、社会福祉、友人、社会のつながりがどんどん断たれるなか、他殺ではなく自殺を選ぶのはその人の倫理観や道徳ではなくて、ただただ環境やタイミングなのだと思わせられる。

巷で話題のインセルなのかと思いながら見ていたけど、そうでもなかった。北村紗衣さんのブログがとても参考になった。

saebou.hatenablog.com

あまり音楽がわからないわたしとしてはアーサーがジョーカーの衣装をまとって階段を下りてくるシーンはとてもかっこよくて鳥肌がたったし、細かな演技がとても好きだった。肩を丸めるしぐさとか、踊るときに指の骨がごつごつしているところとか。つまりホアキンが好き。

 

新海誠『天気の子』

数人におすすめされたので観たのだが、びっくり。無。虚無。なにも感じなかったし、なにも残らなかった(おすすめされた人たちに言ったら、「観なかったほうがよかったね」と言われた。理不尽!)。ヒロインの陽菜がとてつもない能力を持っているにもかかわらず受動的なのが気になって、ジェンダーバイアスかかってんなあと思いつつ観て、まあそれは新海誠だしどっちでもいいくらいだったんだけど、終始主人公たちが14歳とか16歳とかだったのに、きちんと守られるべき大人に守られていないのがもうだめだった。小栗旬、警察を止めるんじゃなくて一緒に屋上上がれよ……とかどうでもいいところで立ち止まってしまった。あと端的に、雲の上でずっと暮らせばよくない?居心地よさそうだし地球もハッピー(と言って怒られた)。

 

タル・ベーラ監督『サタンタンゴ』

ただひたすらの長回し、7時間。映画はゴダールだろうが小津だろうが、2時間ほどで違う世界に行ってきて帰ってくる、エンターテイメント要素があるものだと思っていたのが覆された。時間間隔を変容されるほどの長い時間、わたしはただひたすらハンガリーの田舎村の傍観者であり続けた。でも不思議に疲れは感じなかった。

 

是枝裕和監督『真実』

カトリーヌ・ドヌーヴジュリエット・ビノシュ共演というだけで、もう、よだれが出てしまう(女優が女優を演じる映画が好きなことに気づいた。オリヴィエ・アサイヤスの『アクトレス』も好きだった)。内容は軽め。軽快なやりとり、親子の確執、深い絶望もなければ大それた救いの感動もなし。子どもと動物のアドリブもあり。

わたしたちには構造しかない?

ひさしぶりのビボウロク。

 

 

 本【既読・未読雑多】

野谷文昭『20世紀ラテンアメリカ短編選』(岩波文庫

当然のように他人の目をくり抜こうとする荒唐無稽な人間が出てくるように、ラテンアメリカ文学は一筋縄では読めない。とはいえ、人間とはなにか、という問いがひっくり返る快感を覚える。わたしたちがわたしたちであるのは、自我や個性があるとか、社会人としてまっとうな生活を送っているとか、他人の痛みがわかって共感できるとか、そういうことではないのだ。ただ単に血が通っているという事実だけがある。なんといっても「ゴロツキ」感が最大の魅力……ということで、ラテンアメリカ文学に『百年の孤独』以来再度はまってしまった(ぜんぜん関係ないけど、このタイトル、原文では「孤独の百年」で、既出だとは思うけどこのひっくり返しに惚れ惚れする)。

 

平野千香子『フランス植民地主義の歴史』(人文書院

を読む。フランス本国とカリブ海アルジェリア、そしてインドシナなど植民地諸国との関係性でふり回される人間。さすが「人権」を生み出した国、「人権」の振り回し方えげつない。使い方を心得ている、という感じ。

 

そして当然のごとくハマるフランス、クレオール

中村隆之『カリブ‐世界論――植民地主義に抗う複数の場所と歴史』(人文書院

エドゥアール・グリッサン著、菅啓次郎訳『”関係”の詩学』(インスクリプト

パトリック・シャモワゾー著、関口涼子パトリック・オノレ訳『素晴らしきソリボ』(河出書房新社

 

 映画

黒沢清監督、前田敦子主演『旅のおわり世界のはじまり』

ウズベキスタンの美しい街並み、全身から不安がにじみ出る前田敦子の所作。「なぜ危ないほうへ危ないほうへ行くの……!」と作中何度も叫びそうになった。旅慣れていないのにバスに乗る、バザールに行って満足に買い物もできない、双方向的なコミュニケーションができない。それが紛うことなき「普通の女の子」なのだろうな。映画に求めるものが違う人の映画を観てしまった、と思った。俳優陣はすばらしい。

 

・ジッロ・ポンテコルヴォ監督『アルジェの戦い』

ではわたしが映画に求めるものとはなにか?といえば、これだろうな。壮絶な映画、衝撃を受けた。カスバの夜に響く叫び。

 

 

きょうはすくなめに、これにて。

わたしを明け渡さない

東京に行った友人の名前をネットニュースで見つける。彼女は東京で居場所を見つけたのだと思うと、うれしかった。この世界のどこかでわたしの信頼する人が活躍する、これよりも背筋がシャキッとすることがあるだろうか。地を歩きはするけれども、どこかで鳥の視点に立たないと病んでしまう、その空飛ぶ高度が一段階上がったような感覚。

わたしは、削がれない。明け渡さない。わたしのものは、わたしのものだ。わたしの肉体はすべてわたしのものだ、と留保しつつ、あなたと溶け合えればいいのに、と思う。

下に列挙するように本の虫のわたしですが、これではいけない、と思う事件がいくつかあった。現実は進んでいく。文字よりも、ずっと早く。

 

本【既読・未読雑多】

朝吹真理子『TIMELESS』(新潮社)

なんてきれいな装丁だろうかと本屋さんで一目惚れ。未読なのでここからは完全なる想像(妄想)ですが、朝吹真理子はずるい。超ド級のインテリを醸し出しながら、美しくてかっこいいことを隠しもひけらかしもしない(のっけから高級香水の銘柄が出てくるというような)。庶民染みた物言いにへりくだることもまったくしない。沢尻エリカのような、「死ね」と言われて間髪入れずに「お前が死ねよ」と返す凄みはないが、ふっと鼻で笑えるくらいではあるに違いない。はー、ずるい、かっこいい。

 

谷崎由依『鏡のなかのアジア』(集英社

 装丁もいいし、抑制された語りも好き。

 

山崎まどか『優雅な読書が最高の復讐である』(DU BOOKS)

膝を打って同意した。未読だけど。

 

大森静佳『カミーユ』(書肆侃々房)

カミーユカミーユ・クローデルからきているらしい。じっくり読むために、置いてある。でもいつでも読めるような手軽さが、歌集のよいところ。

 

クッツェー著、くぼたのぞみ訳『モラルの話』(人文書院

クッツェーの最新作。読みやすくて、言葉がしみわたる。 

 

文月悠光『適切な世界の適切ならざる私』(思潮社

ふんわりほのぼのした詩だと思っていたら、ゴリゴリの鋭角でびっくりした。毎夜身を削られる思いをしながら一篇ずつ読んでいる。

 

若林恵『さよなら未来』(岩波書店

5月末、大阪ロフトプラスワン若林恵×tofubeatsのイベントに行く。「読みたいものを書け」という若林さんには以前から感銘を受けていて、資生堂花椿tofubeatsアワーは毎月楽しみにしていて、そのふたりだというので行ってみたら、まあなんとお得な対談。3時間2000円。内容ぎゅうぎゅう。人の話はお酒を飲みながら聞くのがいちばんいいよね。『wired』の編集方針、「コンテクストを悟られるな」にしびれた。だからちょっと読みづらかったのか……と納得したし、わたし自身、コンテクストが把握できたものは半分くらい興味が削がれる。いかにコンテクストを悟らせず、みずからがコンテクストをつくりだしているのだという体で押すのは大事(見得を切るみたいなものだな……)。ただ、まったくコンテクストの読めないものを読むのは、とても体力がいる。たとえば巷にあふれるzineなんかは、そのために読むのが大変。それでも読むという体力と時間をいかに捻出するか(いかに好きになる糸口を見つけるか)、という話だなと思った。

 

津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』(ちくま文庫

デビュー作。ずっとずっと読みたいと思いつつ、思いついたときには文庫が棚に並んでおらず、つい先日大阪の本屋の大阪特集の棚でばったり出会った。もし高校生や大学生のころ読んでいたら、平手打ちされるような衝撃を覚えただろう。「魂の物語」と松浦理恵子が絶賛するのもわかる。この世界は弱肉強食、いつの間にか魂が削がれるようなできごとが多すぎる、それでもわたしはわたしの魂を守る、それがひるがえって、どこかの弱き者を救う(と信じたい)。

 

松浦理英子ナチュラル・ウーマン』(河出文庫

だいぶ昔に読んだ1冊だけど、アレサ・フランクリンが亡くなったのでひっぱりだして読んだ。上の『君は永遠にそいつらより若い』の解説が松浦理英子だったこともある。 この人はほんとうにさらりと線を飛び越える。

 

ジャン=パトリック・マンシェット『愚者が出てくる、城寨が見える』(光文社古典新訳文庫

『眠りなき狙撃者』(河出文庫

河出文庫のほうのみ読了。ザラついた森山大道の表紙が雰囲気とマッチして、いい。ロマン・ノワール、つまりアメリカのハードボイルド小説の影響下で書かれたフランスのミステリー小説らしい。特徴は主人公が犯罪者(wikipediaより)。むかしから北方健三あたりが好きだったので、なんだか懐かしい気持ちに。

 

ジュリア・クリステヴァボーヴォワール』(法政大学出版局

訳者解題の充実ぶりに惹かれて購入。

 

アレン・ギンズバーグ著、富山英俊編訳『アメリカの没落』(思潮社

なにを思ったのか、ビート文学を読もうかと。

 

タナハシ・コーツ著、池田年穂訳『世界と僕のあいだに』(慶応義塾大学出版会)

都甲さんいわく、現代のフランツ・ファノンらしい。

トニ・モリスン著、大社叔子訳『ジャズ』(早川書房

トニ・モリスン著、大社淑子訳『青い眼がほしい』(早川書房

読みたかったトニ・モリスン、積読

 

ジュリー・オオツカ『あのころ、天皇は神だった』(フィルムアート社)

『屋根裏の仏さま』(新潮クレスト・ブックス)

音楽のような文章で、悲劇が語られる。

 

 ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』『いちばんここに似合う人』(新潮クレスト・ブックス)

ジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』(新潮クレスト・ブックス)

クリスティーナ・ペリ=ロッシ『狂人の船』(松籟社

外文づいている。『狂人の船』がとくにお気に入り。

 

 『未明02』

ポエジィとアートを連絡するらしい。あんまり明るくないのでわからず、おもしろそう……と思って買った。が、案の定読み方がうまくわからないので、とりあえず置いておいて、じわじわ読む。

 

吉田秋生『カリフォルニア物語』『YASHA ―夜叉―』『イヴの祈り』

BANANA FISHはずっと前から好きだが、アニメでやっているのを観るとはなしに観ていたらまた読みたくなって、ちゃんと調べたら世界観が同じ漫画があるではないか……。ということで読んでみた。文句はまったくないんだけど、吉田秋生は容赦なく人を殺す。それがまったき現実であると宣言するかのように。

 

レベッカ・ソルニット著、ハーン小路恭子訳『説教したがる男たち』(左右社)

ケイト・ザンブレノ著、西山敦子訳『ヒロインズ』(C.I.P BOOKS)

フェミニズム関連の本。フェミニズムに関して、ちゃんと考えねばと思った。わたしのために。

 

以下気になっている本。

横山茂雄『聖別された肉体――オカルト人種論とナチズム』(書肆風の薔薇

岸政彦『はじめての沖縄』(新曜社

川瀬慈『ストリートの精霊たち』(世界思想社

安田峰俊『八九六四 ――「天安門事件」は再び起きるか』(KADOKAWA

ピーター・ポラマンツェフ著、池田年穂訳『プーチンユートピア――21世紀ロシアとプロパガンダ』(慶応義塾大学出版会)

※池田年穂さんの訳書はどれも気になっている。タナハシ・コーツもこの方。

 

グザヴィエ・ドラン『Mommy』覚書 ※ネタばれ含む

※古いけど前の文章が出てきたので。

 

「愛がすべてを変えてくれたらいいのに」

 これは『わたしはロランス』のキャッチフレーズ。彼の映画はこの軸で考えるのがいちばんわかりやすいと思う。『マイ・マザー』では近すぎるがゆえに母と子は反発し合って、『胸騒ぎの恋人』では三角関係に狂って、『わたしはロランス』ではふつうに愛したいのに男は女になりたいと言うし、『トム・アット・ザ・ファーム』は愛したくもないけれど愛さなければいけない状況でどうひとを愛せるのかという話だった。

 愛さえあればみんなハッピーなおとぎ話なんて現実には存在しなくて、人間と人間が出会えばかならずぶつかり合う。そしてグザヴィエ・ドランのぶつかり方はいつも生々しい。観ているこっちが疲れてしまうほどヒステリックに喚き立て、ときには暴力もふるう、それでも、登場人物たちは底では愛を信じていて、だれひとりとして「愛なんて」とニヒルに笑うひとは出てこない。グザヴィエ・ドランが描くのは「愛とは」という思想の対立ではなく、ひとりの生身の人間が愛を武器に、社会や偏見といった硬質で無機質な制度、あるいは制度をその身に取り込んだ人間と戦うさまだろう。もちろん制度を取り込んだ人間も、取り込みたくて取り込んだわけではない、だからよりいっそう「愛がすべてを変えてくれたらいいのに」と願っている。

 そして、これまでの作品では、だいたい「愛」の側が敗北していたと思う。別れのシーンで終わる作品ばかりで、新たな門出を祝す雰囲気もあるけれど、けっきょく、ふたりのあいだの愛はふたりを救わない。ただ、今回の『Mommy』はすこしちがう。

愛と自由を孤独をもって掴み取る

 ADHD多動症、愛着障碍など発達障碍と診断される息子スティーブの母ダイアンは、向いの家に住む主婦カイラの助けを得つつ、なんとかふたりで暮らしていこうとするが、現実社会との摩擦が彼らの愛を軋ませる。やっぱりこの映画もふたりの別れで終わるのだけど、ダイアンはそれを「希望」だと言う。「愛を捨てて、希望を取った」のだと(うろ覚え)。

 京都シネマの月刊ペーパーに載っていたグザヴィエ・ドランのメッセージ。

「僕はいつだって、『母』に立ち戻る。僕は母が戦いに勝つところを見たい。僕が与える問題を果敢に乗り越えていくところを見たい。(…)僕らが間違っているなら、母には正しくあって欲しい。何があろうと最後の決断を下すのは常に母であるべきなんだ。」

「『マイ・マザー』の撮影中、僕は母を罰してやろうと思った。あれから5年しか経っていないけれど、断言できる。僕はいま、『Mommy』を通じて母の仇を取ろうとしている。理由は聞かないでほしい。」

野暮は承知で、わたしは『Mommy』を母が戦いに赴くまでの映画だと思った。もちろんダイアンはこれまでも戦いつづけてきたけれど、いままでは「愛がすべてを変えてくれたらいいのに」と叫びながら人間の痛み脆さ感受性に陶酔していたというか、発達障碍や訴訟、精神病院、経済的困窮という用語のまえに、そんなものでは太刀打ちできないとはっきりと自覚した。

 最後は病院に入ったスティーブが看護師の目を盗んで窓に向かって走り出すシーンで終わる。『カッコーの巣の上で』のラストシーンを彷彿とさせるそのうしろ姿に自由への意思を読み取るのはあまりにも安直かしら。同時に読んでいるからという単純な理由で、須賀敦子の言葉を思い出した。

「もちろん、自由と孤独とは、紙一重のとなりあわせである。孤独を生きることをおぼえたところから自由がはじまるのかも知れない。」(『須賀敦子全集 第7巻』河出文庫、p.479)

 愛も自由もとても曖昧模糊とした言葉だけれど、生身の人間が命を賭して掴み取る価値は充分すぎるほどあると思う。それを母だけに託すのは、すこし重たいかもしれない。でも、そこにグザヴィエ・ドランのなにかがあるのだと、また彼の映画を観てしまう。

この季節の最後の悲しさはあなただけのものじゃない

わたしはわたしの言葉のうちでしか思考できないし、思考のうちでしか言葉を紡げない

詩と幻視――ワンダーは捏造可能か【前編】|早稲田文学女性号刊行記念シンポジウム|webちくま(1/3)

恋愛感情が主に書かれてるんですけど、すべてが悲しいですね。何が悲しいって「少女」、あるいは「少女と言葉」というものにかけられた呪いや固定観念を完全に内面化していて、その内部の言葉でしか世界や違和感や思いを語ることができない。

わたしはわたしのことばで、「わたし」のために語りたい、と常々願ってきた。そして、欲をかけば、それが遠いどこかの知らない「わたし」と共鳴しあうことを。

やっぱり、創作の人間なので、状況や問題を分析して白黒つけたい、はっきりさせたい、という感じではないんです。違和感があったら、違和感をそのまま書くというのが私の闘い方であり、私の表現。

  

この季節の最後の悲しさはあなただけのものじゃない

3月末、毎週楽しみにしていた『anone』も『アンナチュラル』も『きみが心に棲みついた』(反発しつつも結局すべて観てしまった。『そして、晴れになる』と同じ著者だったのね。)あとあさイチも終わってしまい、「ロス」という心の状態をわかってしまった。わたしはこれらの映像たちに、毎週、毎日、元気をもらっていたのだ。そして4月に入ってからの絶不調。身体も心も春の訪れについていけていない。先週くらいから、本もぱったりと読まなくなってしまった。読んでも読んでも言葉が滑る。ものすごく眠ってしまって、休日もだらだらと布団で過ごすようになっていたのだけど、それはよくない、とどこかで聞いた。運動したほうがいいらしい。納得。歩くこと。できれば、大股で。

4月はのっけから重苦しかった。春なのに、心が息苦しい。愛の問題がまったく解決していない!わたしはいまでもすごく愛が欲しいし、なにも満たされていない。誰かに愛してほしいけど、その誰かを見つけられないし、誰かを自分から愛そうとしたこともない。そのきっかけは、どこにあるのか、誰かに教えてほしい。そう、わたしはいまでも誰かに教えてほしいと思っている。この不穏で不確定な時代、自分の力で生きていかなくてはいけないと、頭ではわかっているのに。思考空転。

ただ、もっと思い切りよく遊びたい、と心から願っているのもわたしなのだ。とびきりお気に入りの服を着て、気持ちのいい音楽を聴いて、鮮やかな色を爪に塗って、心に沁みわたる言葉を読みたい。遊びに関しては、誰の教えもいらない、と言い切れる。だってわたしは一人っ子で、なによりも一人遊びが得意だったのだから。ふふふん。ということで、4月は自分をぞんぶんに甘やかす1か月とします。1日1甘やかし。ブルースになりきらないわたしの悲しみまで、楽しみ尽くす。

※追記 『コンフィデンスマン』の長澤まさみはかわいいし、あさイチも新しいメンバーが意外と落ち着く。

 

明るい季節

重苦しい季節が長くは続かないことも経験上わかっていて、自分を甘やかしに甘やかした4月の終わりごろ、気温と風のここちよさにやっと身体が馴染んでいった気がする。明るい陽光、木と土の香り。自由への道が開けたような解放感。味覚が敏感になり、感情の色合いに彩度が増す。好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、苦手なことがはっきりと見えてくる。世界の解像度が上がる、というのはこういうことか。醜いものにすっと顔をしかめやすくなる反面、美しいものはその輝きの粒一つひとつまで見えるよう。

結果、このところの劇的な変化といえば、詩が読めるようになったことだろう。読める、というのは適切ではなくて、どちらかというと、自分なりの読むペースがつかめた、ということ。なんとなくではあるけれども、飴を転がすように言葉を転がす感覚を知った。言葉を味わう。

 

本【既読・未読雑多】

まさか……と思ったが、1月末に列挙した本のうち、1冊も読了したものがない。まあ、そういうこともある。

 

松本卓也『享楽社会論』(人文書院

気になるのは、「女性の享楽」。ファルス享楽の負の連関をとめるものとして?要再読。

 

保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』(中央公論新社

小説家志望ではないけども、チチカカコヘのポップがよかったので、つい買ってしまった。小説とそれ以外の文章の境界線を適切に引いてくれて、すてき。気になった箇所を抜粋。

小説とは、”個”が立ち上がるものだということだ。べつな言い方をすれば、社会化されている人間のなかにある社会化されていない部分をいかに言語化するかということで、その社会化されていない部分は、普段の生活ではマイナスになったり、他人から怪訝な顔をされたりするもののことだけれど、小説には絶対に欠かせない。

 

横田創『落としもの』(書肆汽水域)

出版社の名前がいい。帯がなく装丁もシンプル。まだ読んでいないけれど、保坂和志の言う「社会化されていない部分」があますところ書かれている、という予感で。小説のことばは、やっぱりちょっとちがう。保坂和志が書いていて腑に落ちたのだけど、文学も哲学も、社会的でない個としての自分の見た世界を、自分のことばで表現しようとしている。それはおそらくとてもむずかしい行為だ。

 

川上未映子『ウィステリアと三人の女たち』

日本の出版フェミニズムを牽引している川上未映子の新作。あいかわらずの名久井直子装丁、乙女力抜群。

 

ジュリア・クリステヴァ著、池田和子訳『外国人――我らの内なるもの』(法政大学出版局

竹村和子『愛について――アイデンティティと欲望の政治学』(岩波書店

竹村和子を追っかけて。

 

笠原美智子ジェンダー写真論 1991-2017』(里山社)

新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社 

 

湯山玲子二村ヒトシ『日本人はもうセックスをしなくなるのかもしれない』

友人にもらって放っておいた本を読んでみる。おもしろい……セックスがしたくなる本。「日本の女性は依存先を探している」という言葉にドキッ。まさにいまの心持。

 

アントニオ・タブッキ著、須賀敦子訳『島とクジラと女についての断片』(河出書房文庫)

さらに名久井直子の装丁、堀江敏幸の解説という胸やけするかと思うほどしっくりくるメンツがそろっている。捕鯨の臨場感。

 

ウィリアム・マガイアー著、高山宏訳『ボーリンゲン――過去を集める冒険』(白水社

読むよ、読むのは読むけど、たぶん固有名詞がほとんどわからない。『オデオン通り――アドリエンヌ・モニエの書店』(河出書房新社)や『青鞜の冒険』(平凡社)を思い出すなど。

 

内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社

内沼晋太郎・綾女欣伸『本の未来を探す旅 ソウル』(朝日出版社

その名のとおり、本の未来を探しに。

 

ヴァレリーエステル・フランケル著、シカ・マッケンジー訳『世界を創る女神の物語――神話、伝説、アーキタイプに学ぶヒロインの旅』(フィルムアート社)

ちょっと文章が単調かしら。情緒がない。でも、わたしはこの本に、「わたしはわたしなりの道を歩んでいい」ということを教わった。旅は始まったばかり。

 

ヴィスワバ・シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷)

鴻鴻『新しい世界』(現代思潮社

 

テレビ

情熱大陸 門脇麦

いまの20歳前後の俳優たちは、「わからない」を楽しんでいる人が多い。情報に惑わされない強靭な身体。

 

映画

パク・チャヌク『お嬢さん』

かっわいい。百合のよさとBLのよさは似て非なるものですね。ゲイが異性愛に異議を唱える(もちろんそう捉えてしまう人がいる、というだけの話)だけなのに対して、レズは異性愛と男性社会そのものを根本的に意義を申し立てるため、そちらのほうが脅威となる、ということを笠原美智子に学ぶ。

 

ミック・ジャクソン否定と肯定

 ホロコースト否定と肯定をめぐる法廷サスペンス。アンドリュー・スコットがやばかっこいい。頭の切れる秀才、最高。

 

高橋洋霊的ボリシェヴィキ

当然だけど、ホラーだった!ホラーだった!怖かった!そして得も言われぬ快感と解放感。

 

かけらたち

〈鼎談〉見えないものを表す 赤坂憲雄×石内都×梯久美子岩波書店『図書』にて)

なんてホットな鼎談。

 

書く人/編集する人、そしてメディアが果たせる役割とは──編集者 若林恵×クラシコム 青木耕平対談 前編 – クラシコムジャーナル

「自分の読みたいものを書く」「『嫌い』を克服しない」「おじさんよ、未来ではなく、希望を語れ」と言っているそばから内田樹の新刊『人口減少社会の未来学』。

 

おっさんvs世界:なぜおっさんは世界から「敵」と見なされるのか | BUSINESS INSIDER JAPAN

若林恵さんの言葉には、いつもはっとさせられる。「くすぶっているおっさんをどうするか問題」、とりあえずわたしも「おっさんの適切な使い方」を探さなくては(言葉を選ぶならば、おじさまにどう教えてもらうか)。そして若林さんの切り替えしがすばらしい。「ある意味これって女性の問題でもあるんですよ」。その通り、おっさんをおっさんたらしめてきたのは同じ世代のおばさんなのであって、彼らをそうさせてきたのは、これまでの日本社会なのだ。西加奈子の新作『おまじない』も、読んでいないけど女の子をおっさんが救う話だと聞いた。わたしもどこかでおっさんを敵視していた。とくに団塊世代は正直嫌いだった。でも、彼らだっていつかは子どもだったのだ。

先日仕事の関係でわたし以外すべておっさんの飲み会に出た。みんな型通りのスーツを着て、1杯めにはまずビールでしょうと注文する姿にくらくらした。ここにはまだ昭和があるのか、と。しかし、もはやおっさんは巨大なマイノリティ化しつつある。駅に向かう道すがらタクシーの光やネオンのきらめきを背に並んで歩くスーツのおっさんは、高度経済成長や缶コーヒーのCMのかっこよさを彷彿とさせた。にもかかわらずおっさんの人気は急落に下降気味。おそらくその理由はおっさんが紋切型のことしか口にしないからであるが、それはおっさんに限らない。同じ服を着てどこかで聞いた言葉を垂れ流し、そのことに無頓着である愚鈍さはどこにでもある。その愚鈍さの象徴として、描かれがちなおっさん。なんて不幸なおっさん。