恐怖と欲望のガールズライフ

えーえんと勉強中。基本的に読書や映画の記録。

グザヴィエ・ドラン『Mommy』覚書 ※ネタばれ含む

※古いけど前の文章が出てきたので。

 

「愛がすべてを変えてくれたらいいのに」

 これは『わたしはロランス』のキャッチフレーズ。彼の映画はこの軸で考えるのがいちばんわかりやすいと思う。『マイ・マザー』では近すぎるがゆえに母と子は反発し合って、『胸騒ぎの恋人』では三角関係に狂って、『わたしはロランス』ではふつうに愛したいのに男は女になりたいと言うし、『トム・アット・ザ・ファーム』は愛したくもないけれど愛さなければいけない状況でどうひとを愛せるのかという話だった。

 愛さえあればみんなハッピーなおとぎ話なんて現実には存在しなくて、人間と人間が出会えばかならずぶつかり合う。そしてグザヴィエ・ドランのぶつかり方はいつも生々しい。観ているこっちが疲れてしまうほどヒステリックに喚き立て、ときには暴力もふるう、それでも、登場人物たちは底では愛を信じていて、だれひとりとして「愛なんて」とニヒルに笑うひとは出てこない。グザヴィエ・ドランが描くのは「愛とは」という思想の対立ではなく、ひとりの生身の人間が愛を武器に、社会や偏見といった硬質で無機質な制度、あるいは制度をその身に取り込んだ人間と戦うさまだろう。もちろん制度を取り込んだ人間も、取り込みたくて取り込んだわけではない、だからよりいっそう「愛がすべてを変えてくれたらいいのに」と願っている。

 そして、これまでの作品では、だいたい「愛」の側が敗北していたと思う。別れのシーンで終わる作品ばかりで、新たな門出を祝す雰囲気もあるけれど、けっきょく、ふたりのあいだの愛はふたりを救わない。ただ、今回の『Mommy』はすこしちがう。

愛と自由を孤独をもって掴み取る

 ADHD多動症、愛着障碍など発達障碍と診断される息子スティーブの母ダイアンは、向いの家に住む主婦カイラの助けを得つつ、なんとかふたりで暮らしていこうとするが、現実社会との摩擦が彼らの愛を軋ませる。やっぱりこの映画もふたりの別れで終わるのだけど、ダイアンはそれを「希望」だと言う。「愛を捨てて、希望を取った」のだと(うろ覚え)。

 京都シネマの月刊ペーパーに載っていたグザヴィエ・ドランのメッセージ。

「僕はいつだって、『母』に立ち戻る。僕は母が戦いに勝つところを見たい。僕が与える問題を果敢に乗り越えていくところを見たい。(…)僕らが間違っているなら、母には正しくあって欲しい。何があろうと最後の決断を下すのは常に母であるべきなんだ。」

「『マイ・マザー』の撮影中、僕は母を罰してやろうと思った。あれから5年しか経っていないけれど、断言できる。僕はいま、『Mommy』を通じて母の仇を取ろうとしている。理由は聞かないでほしい。」

野暮は承知で、わたしは『Mommy』を母が戦いに赴くまでの映画だと思った。もちろんダイアンはこれまでも戦いつづけてきたけれど、いままでは「愛がすべてを変えてくれたらいいのに」と叫びながら人間の痛み脆さ感受性に陶酔していたというか、発達障碍や訴訟、精神病院、経済的困窮という用語のまえに、そんなものでは太刀打ちできないとはっきりと自覚した。

 最後は病院に入ったスティーブが看護師の目を盗んで窓に向かって走り出すシーンで終わる。『カッコーの巣の上で』のラストシーンを彷彿とさせるそのうしろ姿に自由への意思を読み取るのはあまりにも安直かしら。同時に読んでいるからという単純な理由で、須賀敦子の言葉を思い出した。

「もちろん、自由と孤独とは、紙一重のとなりあわせである。孤独を生きることをおぼえたところから自由がはじまるのかも知れない。」(『須賀敦子全集 第7巻』河出文庫、p.479)

 愛も自由もとても曖昧模糊とした言葉だけれど、生身の人間が命を賭して掴み取る価値は充分すぎるほどあると思う。それを母だけに託すのは、すこし重たいかもしれない。でも、そこにグザヴィエ・ドランのなにかがあるのだと、また彼の映画を観てしまう。