恐怖と欲望のガールズライフ

えーえんと勉強中。基本的に読書や映画の記録。

『チワワちゃん』雑記 わたしたちはなにを共有できるのだろう

『チワワちゃん』鑑賞。好きな映画だった。ある人間の生の一瞬、もしくは俳優のいちばんの輝きを閉じ込めた映画。花火、閃光、刹那。そんな言葉でたとえられる「青春」そのものとしか言いようのない瞬間を切り取ったこの映画には、めまぐるしく変わる場面すべてにあざやかな光が瞬いている。「何者にもなっていない若者」を描いた映画としては、『渇き。』や『溺れるナイフ』が印象に残っているけれど、本作もまたひとつ自分の中に残る作品となった。かつてあった、あるいはかつて自分が渇望していた、けれどもう辿りつきようのない場所を結晶化してくれたような、愛おしい映画。

あなたがこれから向かうところはわたし達がやってきたところ(岡崎京子『チワワちゃん』)

 

誰も知らないチワワちゃんを、語りで肉づけする
主人公のミキ(門脇麦)が疎遠になってしまった友達の死を知るところから物語は始まる。その子の名前はチワワちゃん(吉田志織)。バラバラに殺害され東京湾に捨てられてしまったチワワちゃんの謎を解くという名目で、ミキはかつての友人たちを尋ねて歩いていく。原作は岡崎京子。バブル期の女の子の危うさを描かせたら天才的な彼女が生み出した「チワワちゃん」という女の子も、やはりとても不安定で魅力的な存在だった。

 天真爛漫、自由奔放で見目麗しいチワワちゃんは、ミキの密かな想い人・ヨシダ(成田凌)の彼女として現れる。入り浸っていたクラブのマスターがある日、VIPルームで遊ぶ不動産関係者の手持ちのカバンになんと600万円もの大金が入っている、と悪い笑みを浮かべて耳打ちする。ぐらりと揺れる仲間たち。もしその大金を盗むことができたなら……?すぐ飛び出して行ったのがチワワちゃんだ。600万円の入ったカバンをひったくって夜の街を笑顔で遁走、チワワちゃんを手助けする仲間たちと必死の形相で追いかけるスーツの大人の、おいかけっこの疾走感が目に心地いい。大金があると聞いて、目を輝かせる子、目ざとくそれを察知して諫める子、そしてチワワちゃんを手助けするその方法、仲間内での役回りや個々の特徴がわかるすばらしいシーンだった。

その600万円を手に、彼ら彼女らは夏の夜のパーティにくり出す(ちなみにこの金は不正献金だったと発覚し、法の隙間を縫って彼らのものとなる)。そして、たった3日間ですべて使い果たすのだ。金庫からお金を取り出す仲間たちを金庫の内側から映す場面では、あまりにポンポンと100万円束を彼らが持って行くので、「嘘でしょ」と金庫の声が聞こえたかと思った……原作もあわてて手に取ったら、この盗んだお金で遊びまくる展開は映画のオリジナルだった。

「こんなに楽しい時間がずっと続けばいいのにと思ったとき、それはもう会わなくなるサインなんだよ」
チワワちゃんの言葉のとおり、音楽とプールと花火とお酒とセックスとタバコその他もろもろに彩られたパーティは3日間で終わる。そこからはパーティの熱が冷めるのと並行して、仲間たちもどこか散り散りになる。まさに夏の夜の夢。ただしシェイクスピアのような大団円が用意されているわけではなく、チワワはモデル業界で売れ始め、ヨシダとはうまくいかなくなり、新しい男をつくって、AVに出演したり、友達にお金を借りたり……などなど毀誉褒貶が。ミキはそれを友達の語りで知る。自分の知らなかったチワワちゃんの顔が見えてくるにつれ、彼女はさらに謎を帯びるようだ。当初仲間内で「ゴールドラッシュ」と呼ばれていた彼女に、謎めいた「人間」の姿が立ち現れてくる。

 

何者でもない彼らに贈る祈り

チワワちゃんの死の謎は明かされないまま終わる。チワワちゃんを好きだった人もいれば、男をとられて憎んだ人もいる。お金を貸して助けた人もいれば、助けなかった人もいる。いつの間にか仲間の中心にいたチワワちゃんは、いつの間にか見るからに悪い人たちと付き合うようになり、いちばんの友人だったというユミ(玉城ティナ)ともいつしか疎遠になり、そして決定的なきっかけも用意されないまま、人知れず惨殺される。でも、なんとなく「わかる」。あんなに軽やかに窃盗を犯したチワワちゃんだから、踏みだしてはいけない線を簡単に越えるだろう。

「チワワちゃんにはやりたいことがいっぱいあったよ」と語るユミ、「チワワちゃんはなにがしたかったんだろう」とつぶやくミキ。そんなミキ自身だけでなく、作中の登場人物たちは、誰一人として「自分のしたいこと/すべきこと」なんて定まっていないのだ。唯一チワワちゃんの映画を撮りたいカメラマンのナガイ(村上虹郎、原作にはない立ち回り)は、彼女が死んでしまいその夢も宙ぶらりん。遊んでいた仲間との連絡を断ち、就活に邁進するヨシダはその鬱屈を晴らすかのように「俺のことが好きだったんだろ」と過去にしがみつくようにミキを襲う(無事に失敗、原作にそのシーンはないし、ヨシダはほとんど出てこない)。

彼らはまだ何者でもなかった。お金も名誉もなにも残らない「青春」という豪奢な空虚は、チワワちゃんの死という定点を突然獲得することで、無理やり引き延ばされることなく結晶化された。最後天国のチワワちゃんに向かって一人ひとりが自己紹介をしていくシーンがある。死者の追悼、そして自己の物語を紡ぐこと。最後の海のシーンは、「チワワちゃん≒青春」を失った若者たちの終着点と同時に、出発点だった。

「いつも一人の女の子のことを書こうと思っている。たった一人の。一人ぼっちの。一人の女の子の落ち方というものを。それは別のあり方として、全て同じ私たちの。」(2004年刊行の物語集『僕たちは何だかすべてを忘れてしまうね』より)

おそらく岡崎京子の主眼は、東京という砂漠で人とのつながりが希薄になり、承認欲求と消費欲求のスパイラルに陥って疲弊していく女の子を描くことにある。だから岡崎京子のラストは、女の子が自分のなかに閉じていき、出口がない気がするのだ。恋愛や仕事では救われないほどの孤独を抱えた女の子は、作中では死に向かうか(殺されるか)、どこか違う土地に赴くかしか選択肢はない。『pink』はどこにも行けずに終わる。それでもわたしは、岡崎京子の作品を読むと、「あなたは孤独の底でもひとりじゃない、どうか描かれることで救われる女の子がいますように」という切実な祈りが聞こえてくる。

 チワワちゃんが死ぬ2、3日前に彼女に会ったというクマちゃん(松本穂香)は、チワワちゃんのことを「きれいな人だった」という。「なんかいいなと思った」と。そして海からの帰り道、ミキはチワワちゃんが全力疾走する姿を路上に見る。夢か幻か、彼女は最初に会った日と同様、黄色いTシャツにショートジーンズで、笑みを浮かべながら駆けていく。岡崎京子の漫画の外では救われない女の子が、映画の中ではあんなに晴れやかに走っている(おそらく岡崎京子の女の子は走ったりしない)。それだけで、なんだか泣きたくなるじゃないか。鬱屈としたこの街から、チワワちゃんのように駆け出したい。それは叶わない夢であり、だからこそ美しいのだが、結晶化されることでチワワちゃんは確実にみんなの心の中に居場所をつくる。

 

暴力的な切断と身体の取り戻し

とはいえ。青春映画が美しいのは、その刹那性がほんとうに刹那であると誰もが気づいているからだ。盗んだお金を罪に問われることなく豪遊し、誰とでもキスをして誰とでもお酒を交わして、何者でもないからこそ垣根なく人と繋がれる。そんな自由なのか自由でないのかすらわからない、境界線のない時間の終わりは暴力的にやってくる。チワワちゃんの死、突然連絡がとれなくなる友達。そして文字通り性暴力でミキの恋は終わった。

映画ではミキがチワワちゃんに抱いていた淡い嫉妬や羨望が物語を駆動させる。ヨーコ(栗山千明)が指摘したことがほんとうだとしたら、それがあるから、ミキはチワワちゃんの輪郭を確かめたくてしかたがない。自分は彼女に負けたのか? それならどう負けたのか、どんな土俵で負けたのか、言葉ではなく体でも見極めたかったのだと思う。映画で描かれるのはミキにとって、チワワちゃんは死んだけどその存在をまだ完全には過去にできていない時間だ。そのゆるゆると続く時間は、作中で暴力的に切断される。

最後のシーンがデート・レイプである必要はあるのかとも思うけど、あれはきっとミキにとってレイプでないとだめだった。ミキはヨシダと1回だけセックスした経験がある。原作ではなにも気にしていないように描かれていたし、「たかが1回」と軽やかに過去にできる女性がいることも知っている。でも映画の撮影された2010年代後半は、レイプや性暴力をきちんと糾弾する声が聞こえはじめ、自分の身体に向き合わざるをえない時代だ。ミキにとってヨシダは「友達の元カレ」であると同時に、「いまだうっすら好きな人」なのだ。そのヨシダとのセックスを自分ひとりで「取るに足らないこと」にするのは、恋心が残っているかぎり、つらいのではないかと思う。しかもチワワちゃんの影を追えば追うほど、脳裏にはヨシダがよぎる。2回目を拒絶ことで、自分のなかに残ったわずかな恋心を昇華させるために、ミキはヨシダから(そしてチワワちゃんから)、ちゃんと体の経験を取り戻さないといけなかった、そんな気がする。

虚脱と諦めと軽蔑の浮かんだ門脇麦の顔を、そして焦燥と失望と孤独に歪んだ成田凌の顔を、わたしはきっといつまでも覚えている。若者特有のいやらしさと絶望が詰まっているレイプ未遂シーンが、わたしは好きだ。

 

大人になること

「青春」は終わる。そんなこと誰だって知っている。しかし、ではその先はどうやって生きていけばいいのかということを、誰も教えてくれない。駆け出したくなるような「青春」が自分にもかつてあったと、郷愁を抱くことが大人になったという印だろうか。外部的に大人にされているようで、どこか解せない。

2016年のトランプ大統領選以来、「世界が分断している」という言葉をよく耳にするようになった。新年の始まりから、トランプ支持者がホワイトハウスに乗り込んだというコメディかなと思うニュースも目にした。保守とリベラルの分断、男女の分断、社会の分断。日本でもじわじわと膾炙してきた、「分断が生まれる」という言葉。その言葉を聞くたびに、ずっと違和感を覚えてきた。人間なんてすでにそこら中で分断されてるよ、と思う。

門脇麦がインタビューで「遊んでいる人たちの映画でしょ」と言われることが多いと語っていた。そういうレッテル貼りの言葉に接するたびに、「この人なに言ってんだろう……」と目の前の人に呆然としたことを何度も思い出す。おそらくそれと同じくらい、いやそれ以上に、わたしの知らないうちに、相手がわたしの言動に愕然としたこともあるだろう。

思想も身体も価値観も共有できない、あるいは共有しても飽き足らない時代に生きているのだとすれば、どれだけ溝が深いかを見極め、どれだけの勇気をもってその溝を飛び越えられるか、という基準しか持てない。

何者かになること、それを強要される社会ではある。だから「何者にもならない」ことは責められるし、「何者にもなれない」と焦る。それが人権、大衆、水平化の世界(誰の言葉だっけ)だ。

ここまで書いてきて、やっぱりチワワちゃんが死んだのは悲しい、と思う。彼女には生きていてほしかった。「何者かになってしまう」若者たちに穿たれた空虚な穴(一生忘れられないとしても)としてではなく、「何者にもなれない」人間として、生き抜いてほしかった。それは現代社会の希望となったはずだ。

 

参考

www.cinra.net