恐怖と欲望のガールズライフ

えーえんと勉強中。基本的に読書や映画の記録。

断章・なぜ書くのか

いちばん親しい人に、「なにがなんでも文脈を読みとってやろうとする気概が感じられない」と言われた。そういわれると、たしかにわたしは「読み書き」が苦手なんじゃないかと感じる。執着が足りない。そしてそれはきっと、世界への愛情が足りないのだ。

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人はなぜ書くのだろう。だれかが言っていた、それは「世界に対する返事」だからだ、と。だれかからの、どこかからの贈り物を、わたしたちは「手紙」として受け取りながら生きている。それはほんとうに「手紙」のかたちをとるかもしれないし、誰かのぬくもりややさしさ、驚愕の事実や景色の美しさなど、かたちに残らないものかもしれない。いずれにせよ、書くことは、その与えられたものたちに対する返事なのだという。

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わたしは自分で書き始めるに値するほどの「贈り物」を受け取れていない、ということになるのだろう。受け取っていないわけじゃない。受け取る感度が低いのだ。だから与えられたものを受け取れない。なんというか、とても悲しい……。

「返事」をするまでには、いくつかの段階があると思う。

まずはじめに、ガツンと脳天を突くような感動とか、なにをしても収まらない怒りとかの「感情」が、たぶんある。橋本治は『人はなぜ「美しい」がわかるのか』という本のなかで、そういう原体験としかいいようのない「美しさ」の経験が、ひいては人間関係にまで影響するということを書いていた気がする(うろ覚え)。

美しいというのは実用とは関係ない言葉である。また他人の支配を意図しない人間関係とかかわる言葉である。(橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』ちくま新書) 

問答無用で、まさに「世界」が襲ってくるような、とても受動的な体験を、能動的な体験にしようと思う次の段階がある。あれはなんだったのか。なにが自分に起こったのか、あるいは起こっているのか。「解釈」をしようとする。

そして、それを定着させるために、人は書く。アウトプットする。人によっては絵を描くことかもしれないし、対話することかもしれない。これが、わたしの現時点での最後の段階。おそらく世の中的にはそれを「売る」という経済の段階がある気がするけど、とりあえずわたしにとっては「書く(創作)」こと。きっとこの最後の段階にいって初めて、他人とも共有できるものとなる。

他人と共有できてやっと、それは「返事」になるのだ。

私はずっと自分で解釈をしようとする、という段階で留まっていた。ひとりっ子だからか、他人と共有したいという欲がほとんどない。でもそれは、世界への返事を怠っている、ということなのだとようやく最近わかった。世界への返事を怠ると、自分の解釈を客観的に判断できず、結果的に受け取る感度も鈍る。

きちんと返すこと。それは、いまのわたしには義務にちかい。だけど、実際に書くことを通じて、もうすこし楽しめるようになったらいいな。

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むかし、絵を描いていたころ、下手なりにとても楽しかったし、アイディアがどんどん湧いてきた。

でも、わたしは技術を洗練させようとしなかった。技術を磨けばもっと楽しかったのに、と思うときもある。漫画家やイラストレーターになっている将来はまったく想像できなかったけれど、わたしの人生に根本的に足りないのは技術を学び続けること、習練だ。

習練にはなにが必要なのか。フロムの『愛するということ』は、愛についてだけでなく、すべての習練に必要なことが書いてある。

①規律(毎日決まった時間に練習するなど、規律正しさ)、②集中、③忍耐、そして④技術の習得に最大限の関心を抱くこと。

愛することをやめてしまうことはできない。だとしたら、愛の失敗を克服する適切な方法はひとつしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである。そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。(フロム『愛するということ』紀伊國屋書店

習練して、書くことができるようになると、たぶん「世界からもらった贈り物」の解像度が上がる。すると、「返事」の精度が上がるはず。「これだけもらったのだから、もうすこし増やして返そう」という能動的な動きが加わる。わたしの書く目的は、これしかない。感度を上げて、贈り物への返礼を適切に行うこと。それが、世界への愛になるのだと信じている。

最後に最近の愛の話を。

綾野剛がドラマ『MIU404』関連のスペシャル番組で、「人生で必要なものはなんですか」と聞かれて、「愛」と即答していた。その後、脚本家・野木亜紀子と主題歌を歌う米津玄師のラジオにゲストとして出演したとき、彼は米津とユニクロのコラボTシャツを着ながら、「これだけは言っておきたいことはありますか」とアナウンサーに聞かれて、「『これだけは言っておきたいこと』は本人に直接言います」と答えた。安易に言わないこと、場所と時間とタイミングをおそらくすべてはかること。小さな愛、小さな返礼を見た気がした。

また、ずいぶん前のあさイチで。川上未映子がゲストの回、視聴者から「母に『あなたは幸せになれない』と言われたことが呪いのように残っています」というメールが届いた。川上未映子ですら絶句するなか、コーナーの終わりがけ、「ちょっといいですか」と博多大吉が遮って話し始めた(以下、「夜明け」さんのブログ抜粋)。

note.com

 「ずっと気になってたんですけど、さっきのメッセージ送ってくれた方ね、お母さんの言葉が呪いになっているという。あの、FAXここで紹介された、読まれたことで、もう、呪いは解除されたということでいいんじゃないかなと。厄落としというかね、これをもって呪いは解けたということで。よろしくお願いします。お幸せに」

この祝福のような言葉は、視聴者からのメールが突然こなければ、博多大吉は発することがなかったものだ。これもまた、「返礼」のしかたなのだと、思わず涙ぐんだ。

だれかへの愛に溢れた返礼は、世界への愛に変わる。

ということで、きちんと文章の技術を上げていこうと思います。合掌。